タイトル通りです。
この夏、親の代、祖母の代と三世代(!)に渡って購読し続けていた「朝日新聞」をやめました。新聞のブランドにかかわらず、きっとそういう人これまでもゴロゴロいたし、これからもゴロゴロ出てくるんだろうなと思います。
ずっと継続していたことなので(何しろ三世代)「新聞をとる」ということに、長い間、疑問も持たずにきました。そういうものだと思っていたのです。親たちが食卓で新聞を読む姿を見て育ちました。新聞は社会のことを知る手段でした(少なくとも以前はそうでした)。その後も長くテレビと新聞は全く競合しなかったし、慰安婦報道問題が起きたときも、淡々と購読を続けていました。むしろ当時はいろいろな検証記事を出していたので、信用できると思っていたくらいです。
社会に出てからは自分で購読費を出し、引っ越しすれば引っ越し先で再契約しました。熱心な読者だったわけではありません。むしろ、まったく元がとれないくらいしか目を通していませんでした。でも、それが日常でした。
その後、インターネットが登場し、新聞の購読者数減が話題になるようになっても、「報道の良心である新聞を守らなきゃ…」などというナゾの義侠心(?)がムクムクとわき、契約を続けていました。
でも、数年ほど前から、新聞をとっていることがだんだん煩わしくなってきてしまいました。そのおもな理由は、
1.読み切れない。
2.読んでも、結局、問題の本質については書かれていない気がする。わかりにくい。
3.社会面などが、時折、情緒的すぎる。
4.既得権益や過労働など、現代の様々な問題について、問題提起はするけれど、まるで自分とは関係のないことのような顔をしている。
5.不要なもの(古新聞)が発生する。
「3」について最初に感じたのは、日本航空の飛行機が御巣鷹山に落ちたときで、そのときはまだ子どもでしたが、搭乗者についてことさら悲劇的に書きたてる記事が、どうしても人の不幸をネタにしているように感じてしまい(いくらそれが報道であっても)、読む自分までそれに加担しているようないやな気持ちになったのを覚えています。その手法はことあるごとに繰り返され、読者を引き込むためと頭では理解しつつも、辟易してしまいます(テレビ等も同様ですが)。
「2」と「4」は微妙にリンクしている気がします。社会の問題をわかりやすく解説するはずの新聞が、実は問題の本質について語っていないことが多いように思います(なので、読んでも、問題の表層しかわからず、いつまでたっても社会の仕組みがわかるようにならない)。
そのほかの問題についても「新聞をとっているのが当然」のときには、問題として浮上しつつも、私の頭の中でスルーされてきたのですが、いったん「新聞、いやになってきた」と意識すると、もう我慢ができなくなってきてしまいました。
そして、この春、新型コロナの問題で、一時、家族が外から持ち込まれる新聞に神経質になったのをよいことに、話し合って新聞をやめることにしました。
新聞販売店の人が何度もやってきましたが、「すみません、やめます」と繰り返しました。
やめたあと…?
快適です!(少なくとも今のところ)
リビングに読みかけの新聞がバラバラと散らかることもなく、月1回束にして捨てる必要もなくなり、変なところでは、夜中の新聞配達の音で「…ああ、もう午前3時過ぎているのか…。あとちょっとしか寝られない」と、焦ることもなくなりました。浮いた3千円で、好きな本を買うことができます。また、台風や雪の日に、新聞配達の人への罪悪感を感じることがなくなりました。新聞社は、天候がひどいときに配達させるの、いい加減やめようよ…。販売店に任せるのではなく、本社が配らなくていいと言おうよ。
やめたあと数カ月してから「紙面が変わったので、無料で何日間かお届けします。見ていただけませんか」と営業の電話がきましたが、断りました。
やめる前は、「あー、ジャーナリズムがどんどん脆弱になってしまうのに手を貸してしまうことになる…」と悩みましたが、不遜もいいところです。当然ですが、わたしごときがどうこうする問題ではとっくにありません。少なくとも、紙の宅配サービスのモデルはもう終了です。
でも、一方こんな時代だからこそ、信頼できるジャーナリズムは、これまで以上に必要とされているはずです。どんな形が主力となるのか。組織なのか、力ある個人なのか…。